Vol. 3 YOUNG RABBITS START!

臼庭潤&YOUNG RABBITS 2006.6.10 左より、福森康(ds)、臼庭、佐藤雄大(kb)、トオイダイスケ(b)、高瀬賢二(g)、 当日ゲストの小林香織(as)
臼庭潤&YOUNG RABBITS 2006.6.10
左より、福森康(ds)、臼庭、佐藤雄大(kb)、トオイダイスケ(b)、高瀬賢二(g)、当日ゲストの小林香織(as)

僕の小学生時代は、巨人軍の王貞治に憧れるやんちゃ坊主でした。

音楽に関しては、クラシックのコンダクターとジャズトロンボニストの二人の叔父達、長唄が趣味の母親、酒を飲んで都々逸を歌う祖父という大家族の中で育ちましたので、常に音楽に囲まれていたのですが、それらの音楽には興味を持たず、当時全盛だった歌謡曲は大好きでしたが、両親に、半ば強制的に通わされていたピアノ教室には、嫌々という感じでした。

しかし、皮肉にもそのピアノ教室が、僕の運命を変えたのか、中学生になった途端、急に管楽器に興味を持ち、気がつけば、ブラスバンド部の門を叩いておりました。

僕は、学習院中等科に進学し、当校の当時のブラスバンド部は、部員不足の為、廃部寸前でした。

「メロディーを演奏するパートがいないので、君はトランペットをやってくれ」この言葉が部長からの最初の言葉でした。トランペットといえば、ブラスバンドの花形で、誰もが第一希望に挙げる楽器です。

早速楽器を家に持ち帰り、練習を始めましたが、僕はヘソ曲がりな性格なのか、「唇を震わせて音を出す事」と「1オクターブに12の音があるのに3本のバルブだけで音程を変える事」に、全く納得がいきませんでした。

そんな理由から、翌日トランペットは返却し、何か他に、理にかなった仕組みの楽器はないものかと部室を物色し、「小学校で習ったリコーダーそっくりな運指で、簡単に音が出て、しかも見た目がいい」という事でアルトサックスをやってみる気になりました。

そうと決まると、今度はトランペットの時とはうって変わって、借りた楽器に添い寝する程の愛着が沸き、寝ても醒めてもアルトサックスから離れる事が出来なくなりました。

もう、ブラスバンドどころではありません。
両親に泣きついて、自分の楽器を買って貰い、独学で勝手な練習が始まりました。当時テレビコマーシャルにまでなった、「渡辺貞夫 カリフォルニアシャワー」に出会った事をきっかけに、全盛期のフュージョンの世界にどっぷりとハマって行きました。

なかでもスパイロジャイラ、グローバーワシントンJrといった、割とシンプルな音楽に惹かれ、次第に、僕の好んで聴くサックスの比重がクルセイダーズに魅せられる事で、アルトよりもテナーに多くおかれる様になり、ネイティブサンの峰厚介氏との出会いで、その決意は固まりました。

中央大学付属高校の合格祝いにかこつけて、またもや両親にテナーサックスをねだりました。

2年程経ち、念願の峰さんに楽器の手ほどきを受け、僕はネイティブサンのホームグラウンドである、高円寺のライブハウス「次郎吉」を皮切りにプロの世界に飛び込みました。

しかし、僕がプロになった時点では、フュージョンブームは既に終わりを迎えようとし、ウイントン・マルサリスに代表される、アコースティックジャズの再認識が流行し始めていたのです。

「フュージョンがやりたかったのに、その場が無い」
ハナからプロとしての厳しさを痛感しました。

ジャズの歴史を身に付けない事には本物のフュージョンは出来ないと言う事も悟り、本田竹広氏の「お前は、コルトレーンよりもロリンズがあってる。ロリンズを徹底的に聴け!」というネイティブサンのピアニストで、当時僕を雇ってくれていた大尊敬する先輩の言葉通り、ソニー・ロリンズとの戦いが始まりました。

ビーバップ、フリージャズ、フュージョンとあらゆる流行を完全に網羅したロリンズに近付こうと、僕もあらゆるスタイルにチャレンジし、夢中で駆け抜け、気がつけば10年です。

一度自分の音楽を整理すべくニューヨークへ向かい、再び当初やりたかったフュージョンに取り組み、常に先輩方の中で育った僕は、当時立ち上げた「JAZZ ROOTS」という自己のグループも先輩方にお願いしました。

以前、お話した事と重複いたしますが、様々な経験を経て、年令が30代後半に差し掛かった今、初めて、これから羽ばたいていくであろう、若手達の中へ飛び込んでみたのです。

無謀ではありましたが、なりふり構わずピュアな気持ちで音楽に取り組んでいたあのころの自分とオーバラップさせながら、今ようやく「臼庭潤&YOUNG RABBITS」という自分の理想に限り無く近付ける可能性を秘めたプロジェクトが発進致しました。

臼庭潤

2006.6.12

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